遍照寺境内は、ツワブキも終盤となり、紅葉の頃となりました。
今年は如何でしょうか。
今ひとつの感が致しますが、名所では、綺麗ですか。
でも秋の装いを味わっ下さい。
先日、10月26日に昨年の小豆島徒歩巡礼のお礼まいりに高野山の奥の院へお参りを致しました。
車で参ればいとも簡単に楽にお参りが出来ますが、難行を選択してのお参りとしました。
高野山の町石は、九度山町の慈尊院から高野山壇上伽藍までに180基、伽藍から奥の院の迄に36基が建てられています。
昔は、木造の卒塔婆が建てられていましたが、文永2年(1265)に高野山の高僧の発願により20年の歳月を掛けて今の200余の町石が弘安8年(1285)に完成しています。
この町石は、高さ約3メートル、五輪卒塔婆の形をした石柱で1町(109㍍)毎に建てられ、金剛界・胎蔵界諸尊の梵字と施主名が刻まれ我々の二世安楽を祈ると共に、高野山参詣表参道の道標でありました。
全行程24㎞8時間の予定。
橋本市の湯の里に前泊し、朝ご飯を沢山頂いて朝8時にタクシーで慈尊院に向かう。
道中、コンビニで昼食を求めるも高校生で店内は一杯。
通学路の途中にあるコンビニでしたが昼食を求めていたのでしょうか。
天候は、時期としては高温にして多湿曇り、夕方より雨の予想の中、まず慈尊院のお参りを済ませて、第一歩を踏み出す。
(慈尊院山門で)
弘法大師によって創建された丹生官省符神社(にゅうかんしょうぶじんじゃ)に向かう石段の右手に180町石を見ながら、合掌をして気持ちを引き締めて歩を進める。
(180町石)
この町石道は、最初と最後が一番きついと聞いていましたが、柿畑に添いながらコンクリートの急坂を延々と歩きます。
体がまだ重たく思うように歩けず、目が見えなくなるほどの汗を掻きながら杖を頼りに登ります。
途中、お接待の冬柿を頂いて一休み。
さすが名物、おいしさは格別でした。
歩くこと14町程、急な上り坂が終わり、展望が開け、紀ノ川の流れ、高野口、橋本市が一望。
先程までの苦しみを嘘のように忘れる絶景。
この山坂の苦しみは、午後にも味わう事となりましたが、朝食の食べ過ぎが一因です。
山道を歩くからと満腹になるまで頂く浅ましさの結果です。
情けなくなります。
腹八分の戒めを実感させられました。
(高野口・かつらぎ町・紀ノ川の絶景)
急な山坂で汗を出し切ると徐々に体が軽くなり歩く調子が上がってきます。
プロ野球の先発ピッチャーは、試合開始の何時間前からランニングなどで汗を出し体を軽快にして試合に臨むそうですが、解る様な気がいたします。
テレビ中継で、「ピッチャーの体が重そうだ、汗が出て体のキレが良くなった」等の解説を耳に致しますが、このことだったんです。
157町石付近に、通称「銭壺」と呼ばれている所があります。
ご存じのように高野山の奥の院には、大中小数十万基といわれるお墓がありますが、あの大きな石は、この道を運ばれました。
急坂で道幅も狭く、大変な労力と危険な作業の為、人夫が音を上げて逃げてしまうことも度々であったそうです。
そこで坂を登り切ったここまで行くと、銭壺があり壺に手を入れて握っただけもらえるようにして人夫を鼓舞したそうです。
人の力はすごいですね。
その様子を描いた絵がありますので、添付します。
緩やかな坂道を歩き148町石付近に「弘法大師」の石仏がある。
この石仏を拝むと遙かに高野山の御廟を望むと言われているが 、杉林が遮って拝むことは出来ない。
手を合わせて先を急ぐ。
144町石の所に町石とは別に1里石があり1里ごとに建てられている。
1里 は、36町(3927㍍)です。
整備された石段を登り切ったところが六本杉といわています。
しばし休憩をし、道中でお会いした福岡からの遍路さんと談笑す。
年は70歳にして、四国88ヶ所を徒歩で満願し、その足で、高野山へお礼参りにされていました。
道中お会いしたお方は、5組6人でしたが、福岡の遍路さんの後を追う旅となりました。
四国88ヶ所徒歩巡礼のお話を聞く度に憧れが募ります。
ドイツからの30歳前後のイケメン男性が軽快に私たちを追い抜いて行きましたが、明日は、京都清水寺観光の予定だそうです。
六本杉からは、迂回して天の里の「丹生都比売神社」(にゅうつひめじんじゃ)へお参りが出来ます。
日没が早く今回は、断念。
夏日にお参りするのが得策です。
丹生都比売神社は、空海を高野山へと導いた狩場明神を祀り、古来から高野山の鎮守社として知られ、高野山と密接な関係を保ってきた神社であります。
高野山での修行中に徒歩でお参りした事が、思い出されます。
境内と高野山町石道は「八町坂」によって結ばれ、合流点には当社を遙拝するための「二つ鳥居」が建てられています。
我々は、まっすぐ穏やかなアップダウンの道を「二つ鳥居」(120町石)に向かい丹生都比売神社を遙拝。
更に平道を歩み開けたと思ったら紀伊高原カントリークラブのゴルフ場。
池越えのコースで、しばしナイスショットを拝見して神田(こうだ)地蔵堂(112町石)でトイレ休憩。
地蔵堂の下に綺麗なトイレが、参拝者の為に造られています。
(二つ鳥居)
(神田地蔵堂)
ハイキングロードのような快適な道が続き、お腹も減って昼が待ち遠しくなるも、60町の矢立迄は頑張ろうと励まされる。
高野山道路が見え隠れし、自動車のエンジン音が聞こえだし、お弁当の近いことを思う。
高野山道路を横断した所に「矢立茶屋」があり、昼食をとらせて頂く。(12時45分)
ここの名物は、焼き餅でご飯類などはありません。
朝求めた弁当を頂き、焼き餅も頂いてお腹は大満足です。
次もいきなり急坂であることを知らずに食べてしまいました。
30分の休憩で歩き出し、高野山まで2時間の道程。
叉叉、食後の試練が待ち受けていました。
坂道のえらいこと厳しさを思い知らされました。
そういえば、「矢立茶屋」で再会した福岡の遍路さんは、弁当ではなく、僅かの焼き餅とお茶ですまされていました。
大食大飲した私とは心構えが違いました。
餓鬼のような自分を恥、お腹が落ち着くまで大変でした。
顎を出しながら登る道中、弘法大師が袈裟を懸けたと言われている袈裟懸石(55町石)があり、石と石の間をくぐり抜けると長生きするとの言い伝えがありますが、躊躇してパスしました。
程なくして、大師が母をかくまったと言われている押上石を通過して更に進み、坂道を町石を捜しながら「あったあった」と言いながらの進むこと41町石をすぎると再び高野山道路と交差して横断します。大休憩
(袈裟懸石)
(押上石)
ここから少し急坂を登ると展望休憩所がありますが、通過して36町石に向かう。
39町石から37町石は高野山道路沿いにあり、道路工事の折に参詣道が変更されたんでしょうか。
左上に高野山道路をかいま見ながら27町石を過ぎると眼下に渓流が見え小橋を渡ると沢に添った気持ちの良いながめが続き、最後の急坂にかかります。
ここまで来れば、疲労も重なり、腰が痛み足も上がらなくなってきました。
元気な愚息やK氏は、ゴールが見えて来て更にエンジンがかかっていますが、私は、やっとの思いで大門へ辿り着きました。
(大門)
大門前では、西洋からの観光客に笑顔で迎えられ思わず笑顔となり、一気に元気を取り戻し、大門で記念写真の人となりました。(15時05分)
いよいよ1町石を目指して伽藍に向かいますが、場所がわからずに伽藍寺務所を訪ね案内を忝なくしてしまいました。
外国の方がカメラを向ける中での記念写真でした。
(1町石前)
最後、奥の院の御廟へ痛む足を引きづりながらのお参りです。
2年越しの行もいよいよ満願です。
お大師さんの御前にて声高らかに般若心経をお唱えして感激の行を終えました。(16時30分)
40,000歩の旅でした。
愚息が言いました。感激が今ひとつだったと。そうなんです、感激は、苦労した時間に正比例するものなんです。今回は、1日の苦労で1日の感激だったんです。
まだまだ行けそう、今回も大きな自信を頂く事となり、来年以降に向かって精進致します。
(奥の院御廟入口)
来年は、まず、5月に修験道の山、大峰山へお参りを予定しています。